NHKのSONGSという番組で宇多田ヒカルさんが出演したとき、小田和正さんがVTRで宇多田ヒカルさんの「真夏の通り雨」という曲について次のようにコメントをしていました。

最後にそのすべてを象徴するように、
突然『止まない真夏の通り雨』と歌います。
息をのむようでした。
そうか。通り雨なのに止まないのか。
何度聴いてもそう思いました。


それについて宇多田さんはこう言っていました。

「私がもしその瞬間死んじゃったら私にとってはそれは「降りやまなかった雨」になるんで。次の瞬間があるという前提がないということですね。」

この二人の話を聞いてぶわっと鳥肌が立ちました。
なぜか「映画ドラゴンボールZ 神と神」というタイトルを思い出しました。

真夏の通り雨の歌詞

「真夏の通り雨」という曲はイントロなしに次の歌詞から曲が始まります。

夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまで鮮明だった世界 もう幻


夢は、夢を見ている間はそれは夢とは認識しておらず、夢から覚めて初めて「今のは夢だった」と認識します。それは、通り雨は雨が通り過ぎてからようやく「通り雨」と認識できるのと同じように。冒頭の歌詞と後半の歌詞はこのようにつながっていたんですね。


「降り止まぬ」と「通り雨」というのは矛盾します。「通り雨」と認識しながらもそれが「降り止まない」と思っています。その瞬間死んでしまうかもしれない「私」の主観的な視点であれば「降り止まない真夏の雨」となっていたでしょう。これは、客観的な時間軸(未来を思っていつかこの雨はやむだろうと思う人の時間軸)と、主観的な時間軸(次の瞬間があるという前提がない「私」の時間軸)にずれが生じる自己矛盾みたいなものを「降り止まぬ 真夏の通り雨」と表しているんじゃないか、と。それは、月日は次々と変わっていくのに思い出にしがみついて悲しみから抜けられない私。夢から覚めたにもかかわらず、再び瞼を閉じて夢に戻ろうとする感情ともリンクすると思います。

ざっくり言うと「君の名は。」のトリックを歌詞に取り入れた、みたいな。小説や漫画が好きな宇多田さんならではの歌詞なのかもしれません。よく読むとこの曲の歌詞には、そういう時間軸のずれがあるフレーズがいくつも出現しています。

さっきまであなたがいた未来

「未来」という言葉を過去形で修飾していたり、

揺れる若葉に手を伸ばし

木々が芽吹く 月日巡る

「真夏の通り雨」というタイトルでありながら、「若葉」や「芽吹く」と初夏に使うような季語が出てきます。また、「初夏」と「真夏」のずれというのが絶妙だと思うんですよ。春、夏、秋、冬、それぞれ1cm間隔だとすると初夏と真夏は2.8mmぐらいの職人技。気づく人は気づくけど、気づかない人は気づかない微妙で繊細なずれ。

複雑になればなるほど説明を加えたくなって言葉を足してしまいそうですが、歌詞って文字数が制限されています。こんなにも複雑な感情を短いフレーズに当てはめていくのは本当に匠の技です。もはや「天才」という言葉が陳腐になってしまうくらいの才能をお持ちの方だな~と番組を見て思いました。


Fantôme